昭和50年11月27日 朝の御理解



 御神訓一 
 「信心する人の真の神徳を知らぬこと」

 真の神徳しかも信心する人のと仰せられる信心を頂いとっても真の神徳と言う事が。分らないで居る人が沢山あると言う事で御座います。我が身は神徳の中に生かされてあるというのですから、幾ら信心があってもなくても天地の御恩恵に浴しておる、ありとあらゆる所謂生きとし生ける者が、この御恵みを蒙っております。そのお恵みその物が、御神徳だと言う事で御座います。
 けれども此処は、信心する人の真の神徳を知らぬ事と仰せられる、信心しておっても真の信心を知らぬ事と仰られるのですから。そういう意味の御神徳でなくて、所謂御神徳の現れしかも信心を頂いておらなければ頂けない。見る事も聞く事も出来ない程のもの、其の事を私は指してあるものと思います。それは矢張り、御神徳を受けられた先生方の御取り次ぎなどを頂きますと、もう本当に唯、神様の御働きに恐れ入る。
 どんなに我情我欲のつっぱった人でも、どんなに強情な人でも、御神徳の前にはひれ伏さなければおれないものそれが神徳。私共が三代金光様の御時代に月、月参りをさせて頂きましたが。もう言葉ぢゃないです。金光様の前に出たらもう体が痺れた様になってしまう。所謂御神徳いうなら神の威に触れるからでしょう、まあそう言う風にして感じてますし。又自分自身が例えていうなら無い生命を助けて頂いた。
 又は矢張り神様のおかげでなからねば、とてもこんな事は出来る筈はないと言った様なおかげを受けて、いうなら御利益を受けて御神徳の有り難さ、素晴らしさというものを感じる訳で御座います。ですけれども本当は信心する人の真の神徳を知る為には、私自身が各自がその御神徳を頂かねば。本当の事は分からんのじゃないでしょうか。ああもう惧れ入った。医者から見放された病人が助かった、本当におかげを頂いたというとっても、段々それが、あん時はふがよかったちゃろうとかね。
 そんなのいくらもありますよ合楽で。ですからそれでは真の神徳を冒読する事になります。そこで本気で信心を頂いてその神徳を、自分自身が頂けば確固たるもの、それこそ今までおかげと気づかなかった所までおおかげ、一切がおかげそれもおかげ、これもおかげと言う様に分って来るんです。そこで立教神伝に、其の方42歳の年には病気で医者も手を放し、心配いたし神仏に願い、おかげで全快いたし、その時死んだと思うて欲を放して天地金の神を助けてくれとあります。
 私は此処の所をです、天地の親神様のそうした神頼みというものを、教祖様がもう純粋無雑というでしょうかね。素直にそれをハイと受け止められた所、受け止められた所から。神様の願いを受けていうなら世の中になんぼうも難儀な氏子あり取り次ぎ助けてやってくれという、そういう聖業に就かれた。そういう尊い事になられた。そういう例えば神様のね。四十二才のあの時に死んだと思うて欲を放して、天地金の神を助けてくれとこういう。それを例えばあの時確かに助けて貰いましたばってんまあ。
 ふが良かったっちゃろうとするかね。聞かれないです。本当にあの時に助けて頂いたと言う実感があるからこそ神頼みを聞かれたのです。そして神頼みを聞かれる様になってから、人が助かる様になってから、愈々天地金の神と同根とまで崇め称えられ、氏子からも神からも両方からの恩人はこの方金光大神とまで仰られるようになった。所謂御神徳を愈々受けて行かれたと云う事になる。
 だから私共はそういう事は出来んに致しましてもです。頂いたおかげをです、本当に愈々お陰であったと実感させて頂く事の為に、その後の信心が大事なのですね。それでないと信心がまあふが良かった位に。段々薄いものになってしまいます。そこでそのおかげを愈々おかげたらしめるための自づからの信心をさせて頂く内に。愈々神徳の何たるかがわかると同時に神徳をまた身に受けて行くと言った様な。昨日の御理解に神徳を受けて行く三つの条件と申しましょうか。
 所謂第一を合楽通いだというのは、合楽に参って来るというのではなくて、神様と氏子が一緒に助かり合うて行けれる。神様と氏子とが拝み合うて行けれる世界を顕現して行けれる、氏子は神様が助かって下さる事の為に。神様はまた氏子が助かる事の為に、お互いが働き合うて行くというあいよかけよの信心が、先ずは出来なければならん。もうこのおかげば頂きさえすれば良いと言う事じゃいかん事が分ります。
 私が助けて頂いたら、その助かりを以て、神様のお喜び頂けるような、神様の手にも足にもならせて頂こうと、いうなら合楽示現活動に本気で参画さして頂こうと言った様なあり方が第一です。次ぎにはです久留米の佐田さんの二五日の発表を例にして話した。食料品を商っておられた時に、私の方ではとにかく品物は良いものから、良いものから果物でも買いにこられたら。どうぞ大きいのから取って下さいと言った様な行き方。子供どんが買いに来たならば、九円の卵を買いに来た時には十円の卵を必ず渡した。
 だから大人が買いに行くよりは子供を買いにやった方があそこは間違いのない。立派なものを下さるという定評がある程であったから、あの繁盛をみた。所が日田の奥さんの里の酒屋をなさっておられたのが、もう殆ど倒産の状態になりましたから夫婦で、それをまた興しに行きなさった。とにかく足掛け四年間で、また元の酒屋と言う事は出来んけれども、矢張り一本立ちが出来る様な酒屋にしてから妹さんたち夫婦に、譲って帰って来られた。その間色々な問題が御座いましたけど。
 現在その食料品屋さんが、今やそれこそ押しも押されもせぬ乾物の問屋を、今経営しとられる。その例えばね信心させて頂くものがその身から打ち込むと言う事は、参るとか拝むとかだけぢゃない。自分の仕事の現場での、打ち込みがなされなければいけない。文男先生が25日言っておりましたように。この人がおかげ頂かん筈はないのにちょっともおかげ頂かん。よくよく話を聞いておると。
 合楽でと家での言う事とする事が全然違う。だから自分の信心が出来とるとか出来とらんとかと言う事は、ここん所の尺度如何というとります。余り合楽でと自分の家でとかけ放れとる。これぢゃおかげ頂ける筈はなかばいと話しとりますそれなんです。何事にも信心になれと、商売させて頂くものがです。例えばお野菜ならお野菜を市場に出しなさる、久富さんとこの牛蒡なんか出す時には。中にくず牛蒡を入れてこうやって出す。始めは何回かごまかしは出来ても。
 そういう事では信用を落としてしまう。繁雄さんの所では、むしろ中には良かとを入れてだすから。『繁』のものはもう検査せんで良か位に言はば信用を受けておると言う事。そういうね行き方が身についてこねばならん、だから信心に言はば打ち込むと言う事は。先き申しました様に、合楽に打ち込むと言う事と、自分の家業そのものに打ち込むと言う事。次ぎには東町教会の先生の例をとって話ました。
 初めの間は自分の信者を取られるというて、人相の変わる位にまあ残念無念と思はれた。所が最近では、そういう難儀な自分から離れて行く時に、自分自身を見極める事に致しましたと言う事になった時に、もう曾てない御大祭であったそうな、その先生のご挨拶を聞いて、若先生がすぐその事をお届けしました。もう今度はもう僕はえらいサ一ビスを受けて来た。もう先生が変わってしまっておられる。と言う事ごとに難儀を感ずるときに、あれのせいとか、これのせいとか。
 世の中のせいなどにしたんではおかげにならん。自分自身の心に焦点を置いて、自分の心を改めて行く、研いて行く事に打ち込む。この三つがねなされなければ御神徳が受けられんという昨日の御理解でしたよね。だから先ず自分自身が御神徳を受けてです。成る程神様の御神徳というものはこういうものかと云う事が、段々分って来る。言わば頂いておったおかげが愈々分って来る、ままでは十斤位に思うとったのが百斤も千斤もの思いでその事をおかげと感ずる様になるのですおかげが。
 それが後の信心が疎かになると、それこそない命を頂いておっても、あの時はふのよかったっちゃろうと云う事になる。そりゃもう毎月月参りだけはしてから、お礼申し上げねばならんが一年余りになる。そして言わばしまいには消えてしまうと言った様な信心では。真の神徳を知ろうにも知りようがない、解りようがないのです。昨日おかげの泉の来月号の原稿が、出来てきとりました。
 それで一読してくれというので、昨日見せて頂いておりますその中に、これは先月二十三日の月例祭の時に私がお説教をさせて頂いたそれが。そのまま収録して御座いました。中に久留米の稲垣さんの話が出ておりました。丁度御本部の教祖大祭を頂かれて、鹿児島においでられるお母さんが久留米に寄られて、そして合楽の御大祭を拝んで行きたいというので残られた、そして愈々明日明後日が、久留米には合楽の大祭というので宮崎に居られる娘さん、言わば久留米に居られる稲垣さんの妹さん。
 この方たち夫婦は、後先は熱心に信心されるが、この方は信心がない。それがお母さんが久留米に来とるというので電話が掛かって来た。いうなら後で私聞かせて頂いた話ですけど、命にもかかわる程しの喘息だったそうです。それでお母さんに来て貰ほうというので、すぐ電話が掛って参りましたから、お母さんはそん時に此処え出て見えられましてね。娘からこうこういうて電話が掛って参りました。信心の無い娘娘婿でありますから、私が参りませんとどう言う風に言うか分りません。
 どうぞ私はどうでも大祭を拝みたいと思いますので、御大祭を拝んであちらにやらして頂きますから。その間どうぞ娘の体の上にお繰り合わせ頂きますように、というお願いをお取り次ぎを頂かれて、御大祭が済んでからお出でられた。もう不思議な位に手がいらんでおかげを頂かれた。もう本当にあれが悪うどんなっとんなら、私は娘婿からどげん言われとるかわからぢゃったというておられます。それから病院に勿論入院されて、大変危険な状態を通られて、また姉さんの稲垣さんの所え電話が掛って参りました。
 それですぐ其の電話を受けられて、もう早速合楽の御神酒、おみきさんを頂いて、宮崎に行こうというお届けに見えられました。その時に私はそのお取り次ぎさせて頂きましたら、シ編に去るという字を頂いた。所謂法律の法という字になりますよね。法という字。頂きましたから稲垣さん今、宮崎に少しばかりのお神酒を持って成る程お神酒の御利益があらたかと言う事が、分るかも分りませんけれども、それだけの思いがあるならです。それだけの思いを神様に向けられたら。
 宮崎行きは必要ぢゃないと私が申しました。そこで宮崎さえは本気で、稲垣さんは本気で朝のお参りをする、昼の御祈念は妹のためにという。御参拝がその月いっぱい続けられました。おかげを頂きました。そういう信心姿勢の所が、お話しに出ております。シ偏と言う事は自然です。去ると言う事は自然に去る、自然に病気はなくなってしまうというお知らせだった。それがその神様の御神慮通りにおかげを頂いて。
 先日もう一週間位前だったでしようか、他の方をお導きをしてその信心のない妹さん自身がとにかくお礼参拝しなければおられないという衝動的なまでの事を感じられたから。医者が止めるのを振り切ってお参りされた。そのへんの所に、私共が本当に分からなければいけない事は、成る程お神酒さんを持って行く真心で。宮崎に持って行ってそのお神酒さんでおかげを頂いたとしても、ああちょっとお神酒さんが利いたというて信心の無い者ですから。合楽のお神酒さんが利いたと言うに違いないです。
 けれどもお神酒さん利いたじゃ信心にはなりませんでしょうが。所謂その時に、ハイと答えたいうなら稲垣さんのそれからの信心が、素晴らしいのです。そういう言うなら信心姿勢を以てされた時に、もう退院のおかげを頂いてもよいと言う事になったけれども、まだ安静にしとかにゃいかん。まだ動いたらいけないと言う事であったけれども、とにかく咳きが出らなくなっただけでも大変なもの、もうその咳が死ぬほどの咳きだったそうですね。もうこれで息が切れるかというひどい咳きだったそうです。
 それで先日から、お礼参拝を新たな方をお導きされてからお礼参拝をして見えました。実に感激のお参りであり、丁度前の月次祭の前の日に着かれましたから前の日に見えてそして。明日のお月次祭に参って帰るというて帰られました。家を出るときにお医者さんが大体はね、絶対安静あんたがとは寝とらにゃいかんのに福岡辺りまで行きよって、どげな事が起きるやら分らんけど。行って帰って来たら病院に直行して下さいよと、まあ家に帰らんでというてあったそうですから。
 病院に直行した。出掛けに脈拍が百あったそうです。所が七十五に下がつとるからもう先生がたまがってしもうてから。もう是は稲垣さんとの電話の話です。どうしたかと福岡にはどこに行ったかと、とてもよかとこに行きました。九大じゃつたのといやまあだよかとこちゅうて、まあ言うたというて言はれたそうです。唯々ひどうならにゃならんのが、反対に普通の状態に還っておるというおかげを頂いて居るお礼のお届けが。稲垣さんの家に昨日、一昨日でしたか電話が掛かってきとります。
 此の中にです私は、信心をさせて頂くものの姿勢、いうならば本当に御神徳に触れられる、又は御神徳を受けられる行き方というものが。ある事を一つ感じて頂きたいと思うです。私は今朝方お夢を頂いた。そのお夢というのが、こう撮影があっておるんです。親と子とのいわば何か筋は分りませんけれども、親の方を演じている人は大変まあ上手です。 所が子供を演じておる人が実に下手なんです。
 私が頂いておっても下手なんです、馬に乗っとるんですけどもう、えすかというて走りきらん、それでもうどんこん仕様のないもんだから、もう馬の足の所だけは映さんな。体の所だけ。なら体ばこうこう動かしなさい、それが丁度走りよるごと見えるから。そこだけば大写しにしとると言う様な。もう撮影をするのにも非常な手が要りよると云う様なお知らせを頂いたです。
 それで私はすぐに思うた、これは私と天地の親神様の事であらうと思った。親神様はもういうなら名優、金光大神は名優だけれども、その金光大神のお手代わりをさせて頂いとる子供が、もう演技が下手だもんだから。それを具合よう写す為には、撮影も大変骨が折れておると言う様な状態であった。また私と皆さんと言う事になっても良い。親先生は素晴らしいオカルトだけれども、もう信者がつまらん、信者がいっちょん言う事を聞かん。 これではもう撮影をしようにも、そのおかげを表して行く事の為の努力が大変いるのです。そこん所ば、例えば打てば響くようにいうならば親と子が。いうならタイミングよく素晴らしくおかげを頂いていったその様子を。稲垣さんの例をもって聞いて頂いたんです。親先生がもう宮崎まで行かんでよかと言わっしゃった、からもう宮崎に行くとは、止めたというだけであったら、もうお取り次ぎの上にどれだけ骨がおれるか。
 例えば良くなってもです。ああ親先生が自然に去ると仰るのだから、あんたが行かんでんよかばいと言われたから、そんなら私もジットしておられん。朝参りは自分のお参り、昼のお参りは妹の為のお参り、そう云う様なね打てば響くような次のものがでなからねばいけんです。稲垣さんの例は、お母さん御大祭にお参りをされた。そして前々日宮崎から電話が掛かってきた時です。
 、相手は信心が無い事ですから、またどげん思うじゃわからん。御大祭も頂きたいけど御大祭には御無礼して、私は宮崎に帰ったというたらどう言う事になったでしょうか。それは人情からはそれがよい。けれども今日の神徳がわかるとか、頂くと言う事の為には、稲垣さんのお母さんのとられた行き方でなからねばいかんのです。そして見事におかげを頂いた。そしてその妹さんが、止むに止まれん思いでお礼参拝をして来た。そのおかげの著しさに、たまがってしもうて、外の難儀な方も伴うて参拝をして来た。
 帰られたら医者が唯々たまがられる様な奇跡的なおかげになって現れて来ておった。もう心配はいらんもう平生に返っとるというおかげになっとる。そのね親子姉妹のその信心がです。打てば響く様に、はあこういう行き方を、身に付けなければいけないなという、ひとつの見本の様なものを感じるでしょう。親と子がピタッといっとるでしょうが、親も親なら宮崎に行かんでよかばい、家から拝んどきなさい。
 毎日参って来いとは私は言わなかった。けれども親先生がああ言われるから、宮崎行きは断念したけれども、それだけで私はおかげを頂いてる方が、合楽では沢山おると思うです。それには兎に角、親の方に骨折りをかける事は間違いないでしょう。又それではね真の神徳にふれる事も、又頂く事もそれでは出来んのです。 神様も一生懸命がんばって下さる。お取り次ぎの親先生も、一生懸命がんばって下さるもんだから、自分もそれに打てば響く様に応えて立たして貰う所に、私はお道の信心はあると思うのですよ。
 サア御本部参拝、まあ何時までたっても参る事は分とったっちゃ、申し込みもせにゃ金も持って来こん。どうも合楽にはそう言う所があるですね。何でんそうです一事が万事です、はあ御本部参拝、おかげ頂きたいそんなら申し込んどきます。お金はちょつと遅れますけども、とこれだけの事を言うとけば、事務所でどれ位もうこれで。予定が出来るか分からんでしょう。
 あそこに書き出しちゃったら参ろうばってんが、もう書いちゃなかから御無礼、そう云う事では。そういうもの合楽にはあるです。本当に神乍らといえば神ながら、けれどもよくない言うならば、おかげの頂きにくい神乍らが合楽にはあるのです。そりゃ締めくくってみるとです、キチッとやっぱりおかげを頂いておるのをみると。張りひれでも神乍らな、教会としてはおかげ頂いとるけれども。
 それはどうも親の演技は素晴らしいけれども。子の演技が悪いので、それを撮影する為には、大変骨が折れておると言う事を。今日私はお夢の中に頂いたと思うのです。信心する人の真の神徳を知らぬ事。本当に御神徳ちゃ素晴らしいと言うたり思うたりしとっても、何時の間にかそれが神様の働きではないかのような思い方に段々なって来る様な信心ではいけません。本当になら合楽の場合は、神徳を目のあたりに或る場合は見せて下さいます。ですから見せて頂くのですけれども。
 段々それが希薄なものになっていくというのでなくて。それが愈々ああ本当に五十なら五十有り難いと思うておったのが。百にも千にも有り難いと感じれる様になる信心が。大事であると同時にその神徳をまた身につけて行くという行き方。昨日今日の御理解を頂いて本当に矢張り自分が頂かねば。真の神徳は本当の意味では分らん。教祖様が42の歳の大患で、死んだと思うて欲を放して、神を助けてくれと言う。
 神頼みの言葉を私共が、受けておるとまず一つ思うて御覧なさい。皆さんに天地金乃神を助けてくれと神様が言うてござると思うてです。その働きに参画さして頂く事が、本当の意味に於いての合楽示現活動に参画すると言った様にもなって来る。それには先ず自分の手元の所。昨日の御理解の三つの所の。徳を受ける為の信心の柱とでも言う様な大事な所をです。身に付けて行くおかげ。
 ちっとも難かしいこっちゃないその気になれば。もうそれが楽しうして有り難うしてこたえんごとなって来るです、信心というものは唯参って拝んで。お願いしてときますというならそれでは何時までたっても一生かかったっちゃ所謂御神徳というものは分かりもしなければ頂きも出来ないでしよう。その御神徳でなからなければあの世にも持って行けこの世にも残しておけると言う様になって来ないのですよ。そういうおかげを目指して愈々精進させて頂かねばいけませんですね。 
   どうぞ。